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第88回 「下エジプト王国はあったのか? その6」 [下エジプト]

「ナルメル王のパレット」は、

ナルメル王によるエジプト統一の証拠ではないかと考えられてきました。

問題は、ナルメル王がまさに打倒しようとしている人物です。

この人物が下エジプトの人間なのか、異国人なのか。

それによって、解釈は変わってきます。

sm-narmerp.jpg


ナルメル王に捕えられた人物の右上には、

ハヤブサのホルス(ネケニ)が、

男性捕虜の頭部のついた「何か」の背に乗り、

片足で男性捕虜の鼻にひっかけた鈎針を持っていますが、

その「何か」の背には、植物が描かれています。


これは、後年の形とは若干違っていますが、

「パピルス」のヒエログリフだと思われます。

パピルスは下エジプトを象徴するものです。


しかし、「北方」を意味するものでもあります。




古代エジプト人のイメージする「北」と、

私たちがイメージするそれとは異なります。

北は、地中海に注ぐナイルのデルタ地帯、

緑の大湿地帯です。


ですから、「下エジプト」だけでなく、「北方」も意味します。



ここで、だいぶ時を経ることになりますが、

テーベ57号墓、「カエムハトの墓」の壁画を見てみましょう。

この壁画には、領地の収穫高の報告を受ける王が描かれていますが、

王座のいちばん下に、9人の異国人捕虜の姿が描かれており、

一つひとつにヒエログリフが書かれているのです。

103.jpg



これらは、「九弓の蛮族」として描かれた9つの部族です。

これら9つの部族の筆頭ともいえるのが、いちばん左の部族で、

パピルスと3つの皿のヒエログリフです。

直訳の意味は「北方人」。

その正確に意味する対象は、おそらく

「シリア人(びと)」

です。



ここまでは、

西村洋子「古代エジプト語基本単語集」平凡社1998年を参照ください。



つまり、ナルメル王のパレットについては、論争が存在していますが、

私は「異国人説」を支持しようと思います。

ここに描かれた男性捕虜は、

おそらくシリア人であろう、と。



すると、自動的に、ナルメル王のパレットをもって、

「ナルメル王によって上下エジプトが統一された」

ということが言えなくなってしまいます。






ナルメル王のパレットは、たしかに表と裏とで白冠・赤冠を被り、

南北エジプト両王の姿を見せていますが、

私がこのパレットから受け取る印象、

このパレットが訴えかけてきているメッセージは、

けっして「上下エジプト統一」ではありません。



ナルメル王のパレットが主張していることは、

「ナルメル王がシリア人と戦って勝った」

ということです。



ということは、上下エジプト統一は、

ナルメル王以前にすでに成し遂げられていた、

ということになりましょう。



では、「エジプト第一王朝」は、何をしたのでしょうか?



それが、ナルメル王のパレットに描かれていることです。



ナルメル王は、各ノモスを組織して大規模な軍隊を編成しました。

攻撃対象はシリア人です。

では、そのシリア人の居住していた場所は?

アラビア半島まで遠征したとは思えません。

もし征服していたのなら、エジプトはアラビア半島にも領地があったはずです。

「どこ?」

の答えは



「下エジプト」



です。



ナルメル王は、メイスヘッドを見る限り、12万人のシリア人捕虜を抱えているにもかかわらず、

領地は上下エジプトのみです。

そのシリア人捕虜は、アラビア半島から連れてこられたのでしょうか?

では、なぜエジプト王は、アラビア半島に支配の拠点を置かなかったか。

もっとも合理的な説明は、




「捕虜となったシリア人は、下エジプトに住んでいた」




ということになります。




ナルメル王の軍隊は、下エジプトを完全に掌握するため、

下エジプトにあるシリア人の集落をことごとく襲い、

12万人の捕虜を獲得しました。

シリア人の首長らは処刑されましたが、

捕虜の中で忠誠を誓った者は、

メイスヘッドに描かれていたように王の彫像などを贈り、

王の領地内での居住を許されました。

おそらく、王領地にける牧畜や農耕に携わったと思われます。




私が考える古代エジプト第一王朝が行ったこととは、

以下のようなことです。



下エジプトに住まう異民族のシリア人を攻撃してエジプト人優位の体制を確立。

支配強化のために新都メンフィスを建設して、

混沌とした下エジプト支配を確固たるものとした。



ですから、南北それぞれに王朝ができ、

頂上決戦で南の下エジプトが勝利をした、

という従来の解釈とは異なる解釈になります。



下エジプトは、ナカダ2・3期から上エジプトの影響下にありつつ、

上エジプトのような強固な連携や大規模な集落がなく、

特にデルタの東側はシリア人の進出もあって、

混沌とした場所であり、

上エジプトに比肩するエジプト人の勢力、

「下エジプト王国」は存在していなかった、



これが私の今のところの解釈です。












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第87回 「下エジプト王国はあったのか その5」 [下エジプト]

エジプト(ナイル上流側。地図では南なので北半球地図では下になる)と

下エジプト(ナイル下流デルタ側)の大きな違いは、

上エジプトはナイル本流一本で行き来できるのに対し、

下エジプトはデルタ地帯の枝分かれしたナイル支流のために、

川を使った行き来が、町どおしの組み合わせによっては困難であったはずです。

第一王朝が、デルタ地帯直前の場所に新しい首都の町メンフィスを建設したのは、

恐らく下エジプト支配に際し、交通の要衝だったからです。


ですから、メンフィスの建設は、下エジプトの各支流沿いに集落があったことや、

上エジプトによる支配が前提としてあったことを示唆しています。


ですが、下エジプト王国が存在していたかどうかは疑問です。


なぜならば、下エジプトにノモスの連合王国があったとして、

なぜメンフィスあたりに上エジプトに対抗した防衛線がなかったのでしょうか?

下エジプトが上エジプトに対し、降伏したということを信じるに足る材料が

思い当たらないのです。

たしかに、ナルメル王のパレットや初期王朝のラベルをみれば、王が外国人を圧倒する場面を見ることができます。

下エジプト支配のためにメンフィスを建設したのに、

なぜか外国人への勝利ばかりが描かれている。

これこそが、大いなる謎なのです。


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第86回 「下エジプト王国はあったのか? その4」 [下エジプト]

「パレルモ・ストーン」は、古代エジプト最古の歴史書です。

現在大小7つの断片が残されており、

先王朝時代の神王達から第五王朝までの王の各年の主な出来事と、

在位期間、ナイルの水位が記録されており、

15人の王が確認されています。

第一王朝ではナルメル王はありませんが、

アハ王の一部と次のジェル王の一部が残っています。



前回、ジェル王のラベル3段目を下エジプトのブトではなく、

上エジプトのジェフウト(ヘルモポリス・マグナ)ではないかと書きました。

そのジェル王のパレルモストーンにおける記録にも、

やはり、下エジプトの町らしき記録が見つからないのです。

palermo3.jpg

http://www.catchpenny.org/thoth/Palermo/palermo3.htm


(↑ジェル王は2段目の3コマ目から。ステッキのような形は「年」を表す。
注目すべきは4年目。つまり右から7コマ目)

パレルモストーンはまだ解読されたとは言えず、

欠損部分もたくさんありますので、

欠損しているところに、もしかするとブトやサイスへの行幸のような

記録がある可能性は残されています。



しかし、アハ王の残存記録に比べて、

ジェル王は、即位年から9年分が残されています。

王は、船で諸ノモスを廻り、その忠誠を確認する

「ホルスの行幸」

を2年おきに、即位2・4・6・8年で実施しています。

おそらく、並行して家畜の頭数調査と徴税も行われていました。


このパレルモストーンの記録とラベルの記録を照合すると、

おそらく、ラベルに記載された出来事は、

ジェル王即位4年目に起きたことです。

注目すべきは、ラベル2段目の四角い囲いの中の、

頭からまるで長い前髪が垂れたように描かれた人物です。

この人物は、パレルモストーンの即位4年目に登場しています。

4年目は、ホルスの行幸も行われた年です。



で、この前髪の人物は何か、ということが興味深いのです。

この人物、



C137.gif




「トト神」を指します。




前に垂れているのは、おそらくトキの嘴を模したものでしょう。


ラベル三段目がトトであるよりも、

もっとトトである可能性が高い表記です。

この特徴あるヒエログリフは、トト以外を指さないからです。



ちなみに、ラベルでは、このヒエログリフの2つ先に、

トキの姿が見えます。



ブト、と考えられていた表記が、

じつはジェフウト(ヘルモポリス・マグナ)であったというのは、

下エジプトとの関係を考えるときに、

大いに影響してきます。



第一王朝の初期の王たちは、

下エジプトにメンフィスを建設しつつも、

もっぱら上エジプトを重視した行動をとっていた、

ということになるのです。


下エジプトは、このとき、この前、

どうなっていたのでしょうか?



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第85回 「下エジプト王国はあったのか? その3」 [下エジプト]

aha3.jpg

アハ王のラベルの2段目右端に鳥がいます。

ブトの鳥だと言われているものです。

上を向いた半円の印は、

「t」の音を表していますので、

ブトのトを意味していると考えられています。



でも、ジェフウトもトがつきます。

私の解釈では、これはジェフウト、つまり

エジプトのヘルモポリス、

ヘルモポリス・マグナになるんです。

ヘルモポリスとは「ヘルメスの町」という意味で、

トトがギリシア神ヘルメスと同一視されたことによります。

トト神の古名が「ジェフウティ」

つまり「ジェフウトの神」という名であったんですね。



そして三段目左端。

ギザギザのついた円の中にも、

二本脚の鳥が見えています。

これも、ジェフウトだと思うんですね。



ギザギザの丸は、

「王領地」を表しています。

つまり、ジェフウトは、同盟ノモスというよりも、

王の直轄地だったんですね。



そう考えると、リビア・パレットにはジェフウトは出てきているのに、

ナルメル王のパレットやメイスヘッドに

ジェフウトが登場していない理由がわかるように思います。



こちらは、ジェル王のラベル。

djer1.jpg

3段目左の鳥は、かなり明白にトキであって、ジェフウティ(トト)です。

そして、アハ王のラベル3段目と同じ船があり、

右端には王領地のマークの中に鳥が見えます。

「トト神祭礼のため上下エジプトより来る5隻の船、王領地ジェフウトに来る」

といった意味でしょうか。



トト神の祭礼のために来るわけですから、

この王領地は、ジェフウトになるわけなのです。



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第84回 「下エジプト王国はあったのか? その2」 [下エジプト]

アハ王のラベルに、「ネイト女神」のマークが登場します。

aha3.jpg

最上段の左下、

盾らしきものと二本の矢が組み合わさったものが、

ネイト女神のマークです。



つまり、ナルメル王の次のアハ王は、

エジプトのサイス(古名ザウ)に船で巡幸したと

いうことになっているわけです。



サイスは、ネイト女神が守護神ですから、

普通に考えるとそうなるんです。

普通に考えると。



しかし、ネイトは、上エジプトでも信仰の痕跡があります。

現在のエスナ、ギリシア語で「ラトポリス」と呼ばれた

古名タ=セネト 、またはイウニトという町です。

この町、クヌム神殿があるのですが、おそらく、

それよりも古くはネイトの信仰地でした。



考えてみれば、ヘルモポリスも上エジプトと下エジプトにありますし、

守護する町が上下エジプトに存在する神はネイトだけではありません。

問題は「どっちが先か」です。

ヘルモポリスは、おそらく上エジプトが先です。

ジェフウティ(トト神)は、上エジプトが先でした。

では、ネイトは?

これが大問題です。



ネイトは、そのマークからわかるように、初期王朝時代においては、

軍神だったと思われます。

そして、です。

アハ王。

この人の名前。

「戦士」

という意味なんです。



盾と棍棒、

これが「アハ」という名前のヒエログリフなんですね。



名前が「戦士」である王が、軍神に参詣する。

自分の名前は盾と棍棒。

女神のマークは盾と弓矢。

王は、上エジプト出身です。



たまたま下エジプトに軍神の町があったから行った、のでしょうか?




私には、エスナに行ったように思えるのです。

他のラベルにも、このネイトのマークが出てくるんですが、

どうやらアハ王、ネイト女神の息子、

というような位置づけだったようです。



神をあらわあす「イミウト」のヒエログリフと、

子ども、または誕生・産れるを意味する「メス」のヒエログリフが、

アハ王の名前のセレクのそばにあります。

そして、その先にネイト神殿。



「神の子アハ、船にてネイト神殿に参詣」

といった意味に受け取れますが、

そのネイト神殿は、

私はエスナにあっただろうと思っています。



ちなみに、ギリシア名「ラトポリス」のラトは、「乳」という意味ですから、

男神であるクヌム神ではなく、

ネイト女神に依拠した町の名前であったということでしょう。




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第83回 「下エジプト王国はあったのか? その1」 [下エジプト]

なんとなく、みなさん、こんなイメージはないでしょうか?



「ナイル川流域にいくつかのノモスが成立し、

やがて上エジプトと下エジプトのノモス連合体ができ、

双方がガチンコの頂上対決をして、

上エジプトが勝利を収め、

ここにエジプト王朝が成立した。

その統一者、最初の王こそナルメル王である」



これが、ここ最近の定説、というか、

「これ以上に支持を集める解釈がない」

というところでしょうか。

教科書にも似たようなことが書いてありますし。



でも、みなさん。

みなさんは、「下エジプトのノモス連合」って、

具体的に聞いたことありますか?

たとえば、サイスやブトの町が連合して、

共通の王を戴いていたという話、

どこで読みました?



一般常識で考えて欲しいわけなんです。

上エジプトで、いくつかのノモスが連合した。

これは、リビア・パレットを見ればわかります。



で、まったく同じように、同時期に、

下エジプトでも互いに連合した。

ここです。

ちょっと待ってください。

こういうところで、一般常識を使うんです。



では、同時期のヌビアはどうでしたか?

同時期のリビアは?

ノモスの連合があったのでしょうか?



私がみなさんに投げかけたいこと。

そのひとつは、

「下エジプトって、上エジプトに似すぎていませんか?」

ということです。



ノモスがあり、標章があり、町の守護神がある。

町は川沿いにあり、壁で囲まれている。





そして、もっと不思議なのは、





こんなノモスどうしが、

真っ二つに近いものどうしで連合し、

その旧紛争地帯に「あるもの」を建設したことです。




上エジプトと下エジプトがおのおの連合していたとすれば、

国境のあたりは、激しい紛争地帯になったはずです。




しかし、その紛争地帯であったはずの場所に、建設されたもの。





それは、統一後初めて置かれた首都、


白い壁の町、


メンフィス


だったのです。




ソウルの例もあるので、

国境に面した場所に首都を置くといくのが

おかしいということもないのかもしれませんが、

よーく考えてみてください。





互いにライバルであった国どうしが戦争をし、

完全に他方が圧倒した場合、

「首都」

をどうしますか?




通常ですと、勝利国の首都が、そのまま首都です。

ローマは、どこに勝っても首都はローマ。

しかし、本国に近いとはいえ、

敗戦国の中に首都を置いたわけですよ。



ふつう、そういうのを許しますか?

上エジプト連合の他のノモスが。




ナルメル王のパレットが下エジプト戦での勝利を表現しているとすると、

相当、完膚なきまでに痛めつけ、

リーダーの首を切り落とし、

10万人以上を捕虜としたわけです。

そのわりに、上下エジプトを対等に表現することに、

エジプト王朝は数千年も腐心している。



どうも、おかしいのです。

「古代エジプト人ってそうだったんだよ」

と考えるこもできますが、


そんなに圧倒的に相手を倒し、

負かした国に首都を置くほど統治に自信をもって安心しているのに、

常に上下エジプトは同等だと示し続ける・・・。



「それが秘訣」

なんでしょうが、属州に寛大だったローマを超える

占領国への配慮です。





私が今、憑りつかれている考え、それは、




「下エジプト連合は存在しなかったのではないか?」


ということなのです。










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